また会える日まで

先日相棒が旅立った。

もういつだっただろう、何日経ったのかよくわからないけれどあっという間の数日だった。

昨日火葬を終えて彼女は天国に旅立った。

火葬場の予約がいっぱいでそれまでの数日、相棒の亡骸は私の部屋にいた。
まるでぬいぐるみのように小さくなった相棒を見てなんだかこのままずっと一緒にいれるんじゃないかと思う位、おとなしく小さく可愛い姿であった。
毎日声をかけ毛布をかけ寒くならないようにといいつつも保冷剤で内臓が腐らないように冷やして数日過ごした。

死んでしまうと不思議なもので、これまでの介護生活から解放されたような安堵の気持ちと、人は(人でなくても動物も)消えてしまっても地球は回り続け日々の暮らし、空気は止まることなく流れていく冷たさ、あっけなさを感じた。

彼女は15歳だった。人間で言うところの90歳だ。彼女のハードはボロボロだった。

肺は変形し呼吸は全身を使ってゼェゼェしていた。腰も背骨も曲がっていた。右半身に麻痺があり真っ直ぐ歩きたくても右に曲がってしまい、同じところをクルクルと回ってしまうような状態だった。

それでも彼女はずっと無邪気で赤ちゃんのようだった。生きる希望と前向きな明るさを持っていた。

最後に病院に行った時痛みに苦しむのを鎮痛してもらおうと駆け込んだときのこと。

隣にいたのおばあさんが瀕死の相棒を見て「何歳ですか?かわいいですね」と言ってきた。

彼女は死に際においても子供のような可愛さ無邪気さをその表情に持っていた。

ハードがもう悲鳴をあげていたが、彼女の精神はまだまだずっと生きたい、生きれると言っていた。それが無念であった。最後は痛がりながらも家族の手の中で静かに動かなくなった。

不思議と彼女の魂が空気の中に広がっていくのを感じた。ああこれからは相棒に囲まれて生きてくんだ。わたしは寂しくないと思った。

この間、相棒の様子をそばで観ながら過去のことをいろいろ思った。どうしてもっと相棒に寄り添えなかったんだろう。どうしてもっと優しくしてあげられなかったんだろう。最期に外に連れて行きたかった。散々、散歩がめんどうだと言っていたのに。それでも相棒はいつも家族でいてくれた。わたしはこれまで自分のわがままや気分で余裕がないと嘆き、一緒にいれる幸せを放り投げて生きてきてしまった。こんなに取り返しつかないと思ったことはない。こんな思いはもうしたくないと思う。

相棒の亡骸が見えなくなってからひどく喪失感が湧いてきた。命が亡くなるか否かの分かれ目、それが最大の悲しみ思っていた。でもそこに物質として、いない、という喪失感は火葬後に大きくなり、死後より後にやってくるのだと思った。

わたしはぼんやりしている。しばらくぼんやりしていようと思う。相棒よまた会おうね。今度はたくさん散歩しよう。また会える日まで。