2022

でかけたくないなら出かけなくても良い。誰にも見られたくないのであれば誰にも会わなければ良い。寂しいけれど誰でも良いから話したいわけじゃない。むしろお気に入り以外どんどん受け入れられなくなっている。
思いはわがままだ。

どうしてこうなってしまったか。わがままでいけないわけじゃない。やさぐれて自分がどうしようもない。
長い長い我慢がただ、ただ長く暗く自分にのしかかる。我慢して我慢して我慢していつまでたってもご褒美にありつけられず私はただのひねくれやろうと化してしまった。

そもそも何を実現したかったのだろう。
私が思い描いていた美意識とは。何だったのだろう。その世界は失われたのだろうか。
それともその世界は何か見間違えていたものなのかもしれない。今わたしは何を実現したいんだろう。過去が今に繋がらない。

美しさとはなんだろう。ぐるぐると考えていた。

若い頃はメディアや環境の影響で知らず知らずマウントをとっていたのだと思う。
誰かよりも〇〇である、それが自分に、自分の生活に磨きがかかった、と思っていたのだと思う。
自分が間違っていたのだろうか。

振り返るとやや小っ恥ずかしい気持ちになるのはやはり何かちょっとずれていたのだと思う。
若い時は〇〇のようになりたい、〇〇のではなく〇〇のようでいたい、
そんな何かに憧れたり自分ではない何かになろうと思っていた気がする。
コンプレックスからなのか、憧れがあっただけなのか、自分が好きではなかった。
しかし今もよくわからないのである。

わたしらしくいれば良い、などと言う言葉は吐きそうになる。そんなこと言いたくも言われたくもない。
らしい、なんていう曖昧な言葉が嫌だ。
私は絶えず動いているし流れているし変わっていく。私がわたしを理解するのは無理かもしれない。ただ流れを眺めているだけ。
流れていくところで出会う人と楽しく生きていければいい。そういうノマドの精神もあるのに、いや40歳までにあれを手に入れ、これを成し遂げ、、と誰かの常識のコピーを貼り付けて自分を縛り付けるわたしもいる。

たぶん私は人に愛されたい。大切だ、という行為を受けたい、それが今1番大きい。そしてできればもう少しお金を持ちたい。自由がほしい。

 

あとはゆったりした服をきて、お風呂あがりにそのまま公園でゴロゴロするような大地の中で暮らしたい。仕事もしなくちゃな。

それは好きな仕事をさせてもらっているからクリアしている。そうだ。好きな仕事をさせてもらえているじゃないか。でも普通と呼ばれる世間一般の収入には程遠い。でも少しずつ頑張ってくださいわたし。

死ぬまで生きるのだから好きでたまらない仕事でお金をもらえているだけよしとして。 

誰にも会わない時期があってもいい。静かに山道を切り開いて歩こう。心がぎりぎりでも今何かでわたしを頼ってくれ人を大切に。親切に丁寧に生きよう。